徳川家康ー3 本能寺の変が起こり京都にいた家康は「伊賀越え」で駿府への逃避行を始める。
徳川家康ー3
「伊賀越え」
家康生涯で難題の第一は「伊賀越え」であった。
本能寺の変で信長が光秀に討たれたとき家康は河内の飯盛山西麓付近にいた。
突然四面楚歌になった家康に京の豪商茶屋四朗次郎清延が千両箱を持参で駆けつけて助けた。ほかに多羅尾一族が警護を担った。
家臣は四天王と言われた本多忠勝、榊原康政、井伊直政、石川数正、長谷川秀一、
そして大きな役割を果たす服部半蔵がいた。
その道のりはには多くの危険が待ち受けていた。山賊の落ち武者狩り、虐げられてきた農民たちの一揆の中をどう逃げきるのか?
家康一行と別れてた穴山梅雪は落ち武者狩りで命を落としている。
全行程200km3泊4日の逃避行であった。
駿河まで逃げて打って出ようとするが時すでに遅く秀吉が中国から大返しで光秀を討ってしまった。家康はこの機に乗じ甲斐信濃を手に入れ5か国の太守となった。
この伊賀越えは日本史上ピンチをチャンスに変えた最高最大の事例と言える。
関宿~潮来~鹿島神宮の旅ですが江戸に入った家康が一番先に実施したことは江戸の町を整備することであった。そのためには多くの川が江戸湾に注いでいて氾濫洪水があったので利根川を東へ移した。
それが利根川東遷であり今回はそのルートを旅することになる。そしてこの工事を請け負ったのが埼玉 伊奈町の 伊奈駿河守忠次であった。伊奈家は川口赤山に移り現在は跡地として整備されている。
関東の北条と越後の上杉が激しく領土争いをした城。
古河公方の家臣 簗田氏が築城
秀吉が小田原北条を撲滅させるまで続いたが家康が関東に入場すると松平が入場する。
珍しく利根川流域にある平城である。
(平川撮影)
潮来は常陸佐竹藩が関が原で西軍についたと疑われ秋田へ転封されたあとは徳川水戸藩下になる。
潮来を有名にしたのは昭和32年ころの
橋幸夫の「潮来笠」
関宿から想いを寄せる潮来笠の娘に利根川へ花を流している伊太郎をうたったのが「潮来笠」です。
もう一つは花村菊江の「潮来花嫁さん」であった。
小説 武功夜話
昭和34年の伊勢湾台風で民家から流出した歴史書「武功夜話」に信長と生駒吉乃との愛が書かれていた。
何も望まない無償の愛 信長は吉乃に惚れた。
生駒家は情報と経済力で信長を支えていた。吉乃は信長の子供を3人生んでいる。信長絶対絶命の桶狭間の戦いで吉乃は精神的な支えとなった。一方濃姫は政略結婚で愛はなかった。実家の斉藤家は父親の道三が息子の義竜に討たれ織田家とは敵対関係。しかも信長との間に子供はいなかった。
吉乃は産後の肥立ちが悪くなくなってしまう。信長は3日3晩泣き続けた。
昭和38年に司馬遼太郎が「国盗物語」を発表している。
武功夜話が発見されて歴史研究家が追及しているときの発表なので吉乃の存在は司馬遼太郎の小説までは届いていなかったと思われる。本能寺の変で華々しく信長とともに戦い散っていく濃姫は司馬遼太郎の作品の世界で登場する姿で、このときは安土城から日野城へ避難する織田家家族の中に「信長公御台」の記録があり本能寺にはついて行っていない。
小説 帰蝶
濃姫についての小説 諸田玲子の「帰蝶」(濃姫の輿入れ前の名前)輿入れ後は美濃の姫ということで「濃姫」と呼ばれた。
信長には24名の側室がいた。(単にお手つきも含む)と思われる。
子供のいない濃姫にとっては信長が外で子供を作るのは屈辱であった。苦悩する濃姫 性格はきつい女性なれどその存在で奥が平穏だったとも言える。