①須佐之男命(すさのおのみこと)稲田姫命(いなだひめのみこと)大己貴命(おおなむちのみこと)を 護祭神 とする氷川神社について
内容は配布資料を参照してください。
邪馬台国と奴国
〇旧石器時代より集落の存在を示す遺跡が発掘されている。
〇縄文時代から弥生時代にかけて大陸との交流によりその影響を強く受けた。
〇魏志倭人伝に邪馬台国が記されていた。
図は魏志倭人伝による魏から奴国までの経路、この後の邪馬台国までの経路は九州中南部や瀬戸内海中国、近畿ルートや日本海ルートが考えられている。
魏→狗邪韓国→対馬国→一支国(いきこく)→末慮国→伊都国→奴国→不弥国→投馬
邪馬台国
菅原道真が大宰府へ流される。道真の墓の上に社殿が建てられる。これが現在の大宰府天満宮 となる。
元が攻めてくる。蒙古と高麗の混成軍は統制がとれず撤退帰路に暴風に会い1万人以上の兵を失う。日本は騒乱の続く中、大内氏が前面に出てくる。やがて毛利が進出し大友氏島津氏と戦乱が繰り広げられ秀吉の九州進出となる。
秀吉から徳川へ
黒田官兵衛が着任する。
関が原の戦いで黒田長政が徳川軍について活躍し52万石が与えられ福岡城を築城する。
長政以降6代で絶えてしまう。そして明治へと移り行く。
〇東芝のルーツは久留米からくり人形
〇日本最大の石炭生産地
〇官営八幡製鉄所
〇ブリジストンの始まりは足袋
部員からの質問
黒田節の由来は?
文禄の役の停戦交渉が行われている頃、伏見の福島正則の屋敷に、朝鮮から一旦帰国した母里太兵衛が、黒田長政の名代として挨拶に行きました。そこで家中の者が集まって酒盛りが開かれました。
そのうち、大盃が持ちだされ、福島正則が「これを飲み干せばどんな褒美も取らす」とふっかけます。そこで母里太兵衛が名乗り出て、見事に大盃を飲み干しました。母里太兵衛は天下の名槍日本号を所望します。正則は武士に二言はないと潔く日本号を差し出しました。
黒田家では誰からともなく、
「酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士」と
これが現代でも伝わっている民謡「黒田節」の由来といわれています。黒田武士が黒田節になったのです。
〇足利義兼が頼朝の粛清に耐えのちの将軍尊氏を誕生させた忍耐の館 足利館
〇孔子の教えを教えた足利学校の説明をする。
〇ついでの足利といえば「フラワーパーク」なので立ち寄ります。
と説明をした。
足利館は鑁阿寺とも呼ばれ足利氏宅跡であり国の史跡に指定されている。
足利の祖である源義康は居館を構え
足利義兼が自宅に大日如来を奉納した。
(写真は平川撮影)
足利義兼は室町幕府を開いた足利尊氏の6代前の祖父。
頼朝と一緒に戦ったひとであったが頼朝による粛清のため狂ったふりをして晩年まで生き延びた。やがて尊氏が幕府を開くことになる。
(写真は平川撮影)
足利氏館は日本100名城の一つ。
しっかりスタンプをいただいてきた。
ここの歴史は40年ほど
足利へ行って藤を見ないで帰るには寂しいので立ち寄る。
足利館と隣接している。
室町時代に上杉憲実が寄進したという記録が最古。フランシスコザビエルによって世界に紹介された。
禅僧により儒教孔子や孟子の教えなどが教えられた。
徳川家康が死去し一年後久能山から日光へ家康の遺体(遺髪か爪)が移され日光へ例幣使が通う街道の宿場町として栄えた。
また船便による問屋街としても繁栄した。