信長次男 信雄が宣教師ジョバンニニコラオに描かせた肖像画
(山形県天童市三宝寺所蔵)(了解を得て転載)
昭和34年伊勢湾台風が愛知県を襲った。
風雨よって古民家から歴史書が流出した。
前野家文書の一部 武功夜話であった。ここには信長と信長が愛した女性生駒吉乃のことが書かれていた。
生駒吉乃とは一度嫁いだが夫が戦死したため娘を連れ生駒の実家に帰っていた女性。(娘t多志は後に荒木村重の側室になる)
生駒家は豪商で全国の商人が出入りしていて信長は生駒家を情報源としていた。生駒家は
資金の提供もしていた。
信長は吉乃に惚れて毎夜10K離れた生駒屋敷まで通った。
こんな矢先に信長絶対絶命の桶狭間の戦いが起きる。前日も信長は生駒屋敷にいた。数日前まで駿府にいた蜂須賀小六と前野将左衛門は生駒の主を通して信長に駿府の様子を伝え
る。城へ戻り朝方起きた信長は幸若舞敦盛を踊り立ったまま湯漬けを食べ出陣する。
そして見事今川義元を討ち取り吉乃の元へ帰る。「吉乃!吉乃!帰ったぞ!勝ったぞ!勝ったぞ!」信長は少年の様に吉乃に駆け寄った。「よくぞご無事で!」吉乃は泣き崩れるのであった。Uチューブ「信長と吉乃」があるので見てもらいたい。
司馬遼太郎の「国盗物語」では濃姫が桶狭間前日も一緒で、帰った時も濃姫の元に帰る。
伊勢湾台風が昭和34年 国盗物語がサンデイ毎日に連載されたのが昭和38年、小説の構想を練った時はまだ武功夜話はまだ世に出ていなかったかもしれない。
司馬遼太郎は小説の中で常に濃姫をそばに置いた。本能寺の変でも襷、鉢巻き、薙刀姿で信長とともに戦い信長より先に庭先で息を絶えている。
それでは司馬遼太郎は何を根拠に本能寺に濃姫を連れてきたのか?
司馬遼太郎は非常に愛妻家だったと言い伝えられている。妻を常にそばに置きたかったのではないか。そして岐阜市に「西野不動尊」がありその門前の大木に「濃姫遺髪塚」がある。ここに本能寺で亡くなった濃姫の遺髪が埋葬されているというのだ。さらに太田牛一著「信長公記」に本能寺の変で信長が「女どもを逃がせ」というがその女性の中に「能」という女性がいた。(信長公記を読むの著者談)これを根拠にしたのかもしれない。
濃姫は「信長公記」では輿入れの以後一切記録がない。
本能寺の変が起きた時濃姫は安土城にいて留守居役蒲生賢秀が女性たちを日野城へひなんさせたがその中に「御台所」の記録がある。また織田家過去帳に「御台」の記録があり
関が原以後まで生きていた。と想像される。
どの説も絶対違うとはいえないのが歴史です。